執事はため息をついた。二人がこれほど激しく喧嘩していることや、瑛介の傲慢で気難しい性格を考えると、彼が自ら探しに行くのは難しいだろう。その中で、ある使用人が小声で言った。「以前、江口さんが家に来たときから、旦那様と奥様の関係がおかしいと感じてたんです。その後、何事もなかったように見えますけど、昔の関係とは違ってましたよね。もしかして、本当に離婚したんじゃないですか?」「離婚」の言葉を聞いた執事は、思わずまぶたがぴくりと跳ね、すかさず叱った。「何を言っているんだ!こんな話は口にするものではない。夫婦の間に喧嘩があるのは普通のことだ。旦那様と奥様は今日喧嘩したからといって、明日には仲直りしているかもしれないのに」執事にたしなめられ、皆は不満げに口をつぐんで散っていった。しかし執事も頭痛を覚え、手を振って「もう知らん」と言い、自分の部屋に戻って休息を取ることにした。執事が去ると、使用人たちは再び顔を寄せ合い、ひそひそ話を始めた。「実はさ、私も思うんだけど、旦那様と奥様って離婚したんじゃない?もし今してなくても、そのうちするかも。こんなに激しく喧嘩してるなんて、私たちが宮崎家に来てから一度も見たことないよ」「確かにね。さっき書斎の前を通ったとき、中からすごい音が聞こえたわ。でも、私たちからしたら、もし奥様がいなくなって、江口さんが来たら、うまくやっていけるかどうかは分からないわよね。今の奥様のほうがずっといい人だし、私たちに迷惑をかけたりしないから」「本当よね」もともと弥生を見下し、破産した資産家の娘だと冷笑していた使用人たちは、現実に気づき始めると、感情が複雑になった。彼女がいなくなったところで、新しい奥様が彼女以上に良い人だとは限らないし、逆に面倒なことを押し付けてくる可能性もある。結局、彼女がいないと却って厄介だと感じ、弥生が戻ってくることを心から望み始めた。一晩中、弥生の帰宅を待ち続け、翌朝、皆が顔を合わせると、最初の質問は「奥様は帰ってきたか?」だった。「いいえ、一晩中帰ってきていない」使用人たちは一斉にため息をついた。「奥様は、もう戻ってこないんじゃないか?」「まさか、本当に旦那様と奥様が離婚したの?」皆の間に重苦しい空気が漂った。由奈の家の周囲は静かで、騒がしい隣人もいなかったが、弥生は寝れな
弥生が思索を巡らせる暇もなく、携帯に着信が入った。画面に表示された名前を見て、彼女急に緊張した。瑛介だ。このタイミングで、彼は一体なぜ電話をかけてきたのだろう?弥生は少し迷った。もう二人は離婚しているだから、これ以上悪化することもないだろう。電話に出るくらいなら問題ないはずだ。けれども、そう決めるのに時間がかかり、彼女が出ようとした時には電話は既に切れていた。仕方なく、彼女は深呼吸してから、瑛介に折り返し電話をかけた。彼が電話に出ると、弥生は「ごめんなさい、ちょっと忙しかったの」と説明した。その言葉を聞いた瑛介は、少しの沈黙の後に嘲笑を漏らした。「ああ、弘次と一緒に居て忙しかったってことか?邪魔したみたいだな」弥生は一瞬、反論したくなった。彼女と弘次の間には何もなかったからだ。しかし、以前、彼の前であえて「弘次と一緒にいる」と伝えてしまったことを思い出し、言葉が喉で詰まった。彼は、きっと昨夜も自分が弘次と一緒に過ごしたと誤解しているのだろう。今さら弁解する必要もないと感じ、弥生は口を閉ざした。その静寂が瑛介には黙認と映り、昨夜彼女が本当に弘次と一緒にいたと思い込ませた。胸が締めつけられるような絶望感が彼を襲い、言葉が出なかった。しばらくして、弥生が口を開いた。「家にまだ私物が残ってるから......今日、取りに行ってもいい?それと、私たちが離婚したこと、お父様とお母様に......」話の途中で、弥生は何かに気付き、急に言葉を止め、「離婚のこと、ご両親には伝えた?」と言い直した。かつて彼と結婚する前に使っていた、よそよそしい呼び方だった。その呼び方を聞いた瑛介の目は暗くなり、彼女がこう呼ぶことに内心で苛立ちを覚えた。そして、意地悪な笑いを漏らし、口を悪くして言った。「弥生、これはうちの問題だ。君に口出しする権利があるのか?」その言葉に、弥生の顔色は少し変え、彼女は目を伏せた。「ごめんなさい」そう、もう二人は離婚したのだ。瑛介の母も父も含めて、瑛介の家族たちはもう彼女の家族たちではない。結婚している間は、彼の家族も自分の家族だったが、別れた瞬間、彼女は一気にその家族たちを失ってしまったのだ。彼女が謝る言葉を聞いて、瑛介の心には一瞬、後悔の念がよぎったが、それも長くは続かなかった。彼女の次の言葉が、その一瞬の後悔を打
弥生は耳に残るビジートーンを聞きながら、心が刺されるような痛みを覚えた。一瞬「もういい、宮崎家には戻らず、何も持ち出さずに終わりにしてしまおう」と思ったが、どうしても取り戻さなければならない私物がいくつか残っていることを思い出し、やはり瑛介がいない時間を見計らって取りに行くことを決めた。朝食を終えた後、弥生はその計画を由奈に打ち明けた。「昨晚言ったでしょ?車の準備はもうできてるし、友達にも手伝いを頼んだの。あとはあなたがしっかり荷物をまとめてくれるだけでいいのよ、心配しないで」思いがけず、由奈がここまで準備してくれていることに驚き、弥生は「よかった、ありがとうね」と感謝を伝えた。「お礼なんていらないわよ」「だって、手伝ってもらわなくてもいいよ。荷物は少ないし、一人で行っても大丈夫」そう言うと、由奈は手を止めて強く言った。「一人?そんなのはだめよ、もし何かあったらどうするの?」「何が起こるって言うのよ?いくらなんでも長年住んできた場所だから。それに、うちの家と宮崎家は昔からの付き合いだし、心配することなんてないわ」彼女の言葉に、由奈もようやく、宮崎家が表向き立派な家であることを思い出し、少し気を落ち着けた。「本当に私、ついて行かなくて大丈夫?」「本当に大丈夫よ。ちょっとした荷物を取りに行くだけだし、まずは病院に寄ってから宮崎家に行って、すぐ戻るつもりだから」「そう......じゃあ気をつけてね。昨日みたいに体調崩さないようにして」昨日のことを思い出し、弥生の目が少し曇ったが、微笑んで言葉を返さなかった。弥生は病院に向かった。昨日は来られなかったため、おばあさんは彼女を見るなり「昨日はどこに行っていたのかい?」と尋ねた。弥生は嘘をつきたくなかったので、笑顔で「ごめんなさい、昨日は大事なことがあって、こちらに来られなかったんです」と答えた。おばあさんはよく理解してくれる人だった。「大事なこと」と聞いて、それ以上は尋ねず、若者にはそれぞれの秘密があるものと察して、彼女の手を取りながら「今日はどんなお話を聞かせてくれるのかね?」と微笑んだ。弥生は柔らかく微笑み返し、「今日はどんなお話が聞きたいですか?」と尋ねた。「では、今日は家族にまつわる話を聞かせてくれないかね?」その言葉を聞いて、弥生の心がドキド
弥生はしばらくその場に立ち尽くし、考え込んでいたが、最後には何かを決意したように振り返り、去ろうとした。しかし、振り向いた瞬間、病室のドア前に立つ瑛介が目に入った。二人の視線が空中で交わり、時間が止まったかのようだった。数秒後、弥生は無理やり笑顔を作り、彼に向かって歩み寄った。「おばあさんの様子を見に......」一瞬ためらった後、言い直した。「あなたの祖母のお見舞いに来たの」瑛介は冷ややかで無表情な視線を彼女に向け、まるで彼女が見えないかのように無視してすれ違った。この場の空気は、まるで氷の破片が混ざっているかのように冷たかった。弥生はその場に数秒立ち尽くした後、ここがもはや自分の居場所ではないことを悟り、そっとその場を離れた。彼女が去った後、瑛介は振り返り、彼女が立っていた場所に一瞥をくれてから、視線を戻した。弥生は荷物を取りに宮崎家に戻った。彼女が家に入ると、執事と使用人たちがすぐに駆け寄ってきて、まるで親しい人を見たかのように喜びの表情を浮かべた。「奥様、ついに戻ってきてくれたんですね!」「昨夜はどこに行かれていたんですか?一晩中戻らなかったので心配しました」「そうですよ奥様、お帰りなさいませ。お腹は空いていませんか?何か召し上がりますか?」以前は誰もここまで温かく迎えてくれることはなかったのに、弥生は一瞬、みんなが何を考えているのか分からず、戸惑ったが、平静を装っていた。彼女が一通り挨拶を交わし終えると、弥生は階段を上がって、自分の荷物を片付けるために部屋に向かった。持ち出す荷物は少なく、日用品だけだった。衣類は残すことにした。使用人たちに疑われるのも面倒だと思ったからだ。幸い、今日は瑛介も瑛介の母も家にいない。急いで荷物をまとめて出て行けそうだった。使用人たちは下の階で世間話に興じていた。「奥様が今日戻られたということは、旦那様と仲直りされたのかしら?」「たぶんそうね。夫婦って喧嘩しても、寝ている間に仲直りするものだし」ところが、話し終わった矢先に弥生が小さなバッグを手に持って階段を下りてくるのが見え、出かける様子だったので、皆は驚いた。戻ってきたばかりなのに、また出かけるつもりなのか?彼女たちはすぐに駆け寄り、弥生を囲んだ。「奥様、せっかく戻られたのに、またどこかに
こう質問された弥生は、一瞬、戸惑いの表情を浮かべた。どう答えるべきか迷っていると、執事がふと口を開いた。「昨夜、旦那様は帰宅してから今までずっと食事をとっておられません」弥生は思わず沈黙した。今になってそんなことを教えられても、彼女に何の意味があるのだろう?「旦那様と奥様の間に何があったかはわかりませんが、長い付き合いですから、もし解決できるようでしたら......」弥生は静かに言った。「もう解決できないの」その一言で、執事はそれ以上何も言えなくなった。しばらくの沈黙の後、彼は小さな声で、「奥様がそう決意されたのでしたら、お気をつけて行かれてください」と言った。弥生は最初少し迷った表情を浮かべたが、すぐに微笑みを浮かべて答えた。「ありがとう。どうかお体を大切にしてね。それと、おばあさんのこともよろしく」執事は真剣な表情でうなずいた。「私は宮崎家の執事ですから。奥様がおっしゃらなくても、それは当然のことです」彼は賢明な人で、他の人が気づかないことにも気づいていた。「奥様、どうかご無事で」弥生は小さなバッグを手に宮崎家を後にした。玄関を出る前、彼女は振り返り、暫く約二年間過ごしたこの場所を見つめていた。もともと長く滞在するつもりはなかったが、あっという間に二年の時間が過ぎ去っていた。時間の流れとは本当に早いものだ。偽装結婚をする前は、彼女と瑛介は友人であり、幼なじみであり、互いに助け合える関係だった。それが、今では離婚という悲しい結末を迎え、二人の関係は他人同然になってしまった。だが......彼女は今も瑛介に感謝していた。彼は彼女が一番大変だったとき、彼女を助けてくれたから。その恩は、彼女の心に刻まれ続けるだろう。弥生は静かに背を向け、宮崎家を出るまで歩き続けた。冷たい風が枯葉を巻き上げ、葉はくるくると舞いあがり、やがて元の場所に戻った。その頃、瀬玲はまさに生き地獄を味わっていた。幸太朗の仲間と見なされ、しばらく拘留されたが、初犯で被害者に大きな実害がなかったため、釈放されることになった。しかし家に戻ると、瀬玲は家族が報復を受けていることを知り、愕然とした。もともと水羽家は江口家に依存して小さな会社をやっている、江口家の残り物を拾って糧を得るような存在だった。そのため、瀬玲も普段から奈々に媚びを売
奈々は全く会おうとせず、瀬玲無理に入ろうとしたので警備員が出てきて、彼女を追い払うまでの始末だった。瀬玲の生活は地獄のようになった。母親はストレスのあまり、睡眠薬を大量に飲んで自殺しようとしたが、幸いにも弟が気づいて止めた。とうとう、弟は彼女の前にひざまずき、「お姉ちゃん、どうか頼むよ。一体誰を怒らせたんだよ?早く謝って解決してくれないと、僕たちみんな海に飛び込むしかないんだ」と懇願した。最終的に、母親までが彼女の前で膝をつき、涙ながらに訴えた。「家族は昔から女の子だからってあなたを冷遇したことはなかったでしょ。今家族が大変な時なの。一体誰を怒らせたのよ、早く謝ってきてちょうだい。家はもうこれ以上耐えられないわよ」誰を怒らせたのか?瀬玲には、怒らせた相手が誰かよく分かっていた。追い詰められた彼女は、とうとう宮崎家の門に向かうことにした。彼女は宮崎家の門の前に立ち、この壮麗な建物を見上げながら、自分の家の崩壊した様子を思い浮かべ、唇を強く噛んだ。そのとき、携帯が通知音を鳴らした。見てみると、グループチャットで誰かが奈々をタグ付けし、午後に出かけないかと誘っていた。すぐに奈々が返信し、ノリノリで承諾していた。その一方で、瀬玲と奈々の個別のチャットは、瀬玲が何度もメッセージを送っているが、奈々からの返事は一切なかった。彼女がどう懇願しても、奈々は冷淡に無視しているだけだった。ふとそのメッセージが送信取り消しされるのを見た瞬間、瀬玲は思わず冷笑した。どうやら奈々は、まだ彼女がそのグループにいることを忘れていたようだ。急いで送信を取り消したのは、瀬玲に見られるのを恐れたのだろう。瀬玲は、奈々が会ってくれないのは何か特別な理由があると思っていた。彼女が体調を崩しているとか、自分が問題を起こしたことで家族が怒っていて、奈々が自分に会えない状況にあるのではないかと。だが、実際は奈々自身が彼女を避けているだけだと気づいた。その時、瀬玲の心に悪い考えが浮かんだ。彼女はその場で奈々に電話をかけたが、案の定、奈々は出なかった。電話が切れると、瀬玲はゆっくりとメッセージを送った。「奈々、今、私がどこにいるかあててみない?」その後、宮崎家の大門の写真を撮って送りつけた。予想通り、暫くして奈々から電話がかかってきた。瀬玲はその電話が
奈々は言葉を失い、沈黙していた。その沈黙に、瀬玲は満足そうに微笑んだ。「どうしたの?黙り込んで。ねえ、私がこのことを瑛介に伝えたら、彼はどんな反応すると思う?」「瀬玲」 奈々は慌てた声で叫び、沈黙を破った。彼女が立ち上がり、急ぎ足で外に出る音すら聞こえてくる。「何かあれば、話し合って解決しましょう。だから、どうか落ち着いてくれない?」瀬玲はこの反応に満足し、またもや冷たい笑みを浮かべた。どうやら、奈々は本当にこのことを瑛介に知られたくないようだ。予想通りだった。「私は冷静だよ。ただ、瑛介には真実を知る権利があると思っただけ。真実は誰にでも知る権利があるんだから、そう思わない?」奈々は一瞬沈黙した後、少し苦しそうな声で言った。「瀬玲、もしかして最近のことで私を恨んでるの?ごめんね、無視するつもりはなかったの。ただ、父が私にあなたと付き合うなって言ったの、そうしないとお小遣いを取り上げるって脅されて......」「それで本当に私と縁を切ろうとしたってわけ?以前、あなたが自分で言ったことを覚えてる?あなたは宮崎家の嫁になったら必ず私に恩返しするって言ったわよね。これがあなたの恩の返し方?」「ごめんね。恩返ししたいと思ってるのは本当だけど......」「じゃあ、今すぐに恩返ししてもらうわ。5000万円、すぐこっちに振り込んで」「え??」「何を戸惑っているの?あなたたち江口家が宮崎家と連携している以上、5000万円なんてなんとでもないでしょう?」「瀬玲、落ち着いて。ちゃんと話を聞いてよ。この件は......」だが、瀬玲は既に苛立っていて、奈々の言い訳など聞く気はなかった。「私は5000万円が欲しいの。五分以内に振り込まなければ、宮崎家に入って弥生のことを話すからね」そう言い放ち、彼女は奈々の電話を切った。電話を切った後も、彼女は宮崎家の門の前で待ち続け、奈々が焦り、動揺している様子を思い浮かべながら、満足そうに立っていた。弥生に許しを請うために来たはずが、事態が大きく変わったことに、彼女は心の底から快感を覚えた。奈々は、瀬玲に絶好の弱みを握られる結果になったのだ。これから彼女は、この弱みを使って奈々を操ることができるかもしれない。これまで、彼女はずっと奈々に媚を売っていたが、それでも何の利益も得られなかった
奈々は、瀬玲がお金を受け取った後に落ち着きを取り戻したのを感じ、柔らかく声をかけた。「瀬玲、今宮崎家にいるの?私もそっちに向かうから、待っていてくれる?」「いいよ」瀬玲は即答した。「私も会いたいのよ」奈々は一瞬言葉を失ったが、「じゃあ、そこで待っててね。すぐに行くわ」と返事して、車で駆けつけた。車を降りると、奈々は急いで瀬玲の前に走り、微笑んで見せた。そして、瀬玲の背後にある宮崎家の門をちらりと見て、「中には入ってないわよね?」と慎重に尋ねた。瀬玲は目の前の奈々を眺め、完璧に着飾った彼女と比べ、自分がこの数日まるで落ちぶれたように見えることに気が付いた。自分がこうなったのは奈々のせいだと思うと、彼女に対する憎しみが募るばかりだった。「どうしたの?私が中に入るのが怖いの?」奈々は顔色を変え、必死に笑顔を作り直した。「瀬玲、もう怒らないで。私も仕方がなかったのよ」「そう、じゃあ前は仕方がなかったとして、今はなんで会いに来たの?」瀬玲が強気に責め立てる様子に、奈々は心の中で彼女を殴りつけたい衝動に駆られたが、弱みを握られている以上、ここで怒りを露わにするわけにはいかなかった。もし彼女が瑛介に会いに行ったり、宮崎家の門前で騒ぎ立てでもすれば、全てが台無しになるだろう。「車の中で話そう、いい?」と奈々は提案したが、瀬玲は動かなかった。奈々は気を引き締めて彼女の腕をそっと取ると、「ご家族も最近いろいろ大変だって聞いたわ。私が助けられることがあれば、手伝いたいの。話を聞かせてくれる?」家族のことを思い出し、瀬玲はしぶしぶ同意して「うん、話をしましょう」と頷いた。彼女を車に乗せると、奈々は宮崎家の門を一瞥し、ほっと胸をなでおろした。この数日間、瑛介は全く彼女に構ってくれなかった。何度も連絡しても「忙しい」と返され、次第に返信さえなくなった。誘惑して関係を深めようとしても手立てがなく、二人の間には深刻な問題が生じているのを感じていた。原因が何であるかは、奈々には明確だった。彼の機嫌は悪くなるばかりで、離婚は進まず、彼女の中にはひとつの不安がよぎり始めていた。もしかして、瑛介は弥生のことを本当に好きになっているのでは?その可能性が脳裏に浮かんだ瞬間、奈々の心は恐怖で凍りついた。瑛介は、まだ自分が本当の命の恩人が弥生であると
すでに怒りの頂点にあった聡は、目の前を突然通り過ぎた弥生の姿にさらに我を忘れ、弥生に掴みかかった。好きな女性の前で、面目が立たなかったのだ。だから弥生が近づいてきたとたん、聡はその怒りを彼女にぶつけた。だが、まさかその行動が瑛介をここまで激昂させるとは思ってもみなかった。瑛介が怒りに燃えた目で自分に向かって大股で歩いてきたとき、さすがの聡も一瞬怯み、弥生を放そうとした。ドン!拳が聡の顎に直撃し、そのまま彼は地面に倒れ込んだ。弥生がまだ何が起きたのか理解する前に、瑛介は彼女の腰を抱き寄せ、そのまま自分の胸元へ引き寄せた。なじみ深い香りと温もりが、彼女をすっぽりと包み込んだ。弥生は驚愕しながら瑛介を見つめた。ただ肩を掴まれただけで、彼がここまで激怒するとは——想像もしなかった。一方、地面に叩きつけられた聡は、怒りで顔を真っ赤にし、すぐさま起き上がると、今度は自分から拳を振り上げて瑛介に殴りかかった。「女のために俺を殴るってのか?いいぜ、かかってこいよ!」瑛介は無表情のまま、弥生を背後に庇い立ちふさがった。そして、そのまま軽々と聡の拳を片手で受け止めた。拳をあっさりと止められたことに、聡は目を見開いて固まった。「出て行け!」「間違ったことをしたのはお前だろ!?お前、奈々に対してこれでいいと思ってんのかよ!?」瑛介に掴まれて動けないその手を振りほどこうとしながら、聡はもう片方の拳を振りかぶり、不意に瑛介の顎を打ちつけた。ドスッ!瑛介の顎に拳が命中した。背後で見ていた弥生は一瞬、表情をこわばらせた。指先を動かそうとした矢先、奈々の悲鳴が響いた。「やめて!」奈々は泣きそうな顔で走り寄り、混乱の中、瑛介の腕に飛びつくようにして抱きつき、その後、聡の手首を掴んだ。「お願いだからやめて!私のために喧嘩しないで......」弥生は奈々を一瞥したが、その表情は何とも言えない複雑なものだった。私のためにって?自惚れるのもたいがいにしなさいよ。瑛介と聡が、あんたのために喧嘩するわけないでしょ?呆れる思いで見ていると、綾人がゆっくりと近づいてきた。彼の複雑な視線はまず弥生の顔を一周した後、ようやく三人の男たちに向けられ、ため息混じりに言った。「落ち着けよ、こんな長い付き合
弥生は他のことに関わるつもりはなかった。自分の子供たちを迎えに来ただけだった。子供に関係のない人間には、これっぽっちも関心がない。そう思った弥生は、誰にも目をやらず、そのまま子供たちを迎えに中へ入ろうとした。しかしそのとき、聡が突然彼女を指差して叫び出した。「瑛介、この女がなんでここにいるんだよ!?お前、もう彼女と離婚しただろ?じゃあ、中にいるあの子供たちは、お前とどういう関係なんだ!?」狂ったライオンのように怒声を上げながら、聡は胸を押さえ、怒りに震えていた。「そんなことして......情けなくないのか!?」それを耳にした奈々は、たちまち目に涙をにじませ、唇をそっと噛み締めた。だが、瑛介はただ冷たく、聡を見下すような目で見つめていた。まるで哀れな存在を見るような、冷ややかな目だった。その視線に、逆に聡はさらに苛立った。そして、すぐ横で泣きそうな奈々の姿を見て、彼の中の怒りは一気に爆発した。長年思い続け、手のひらに乗せて守ってきた女性が、瑛介のせいで傷つけられている。その思いが、彼を突き動かした。「瑛介、全員がそろってる今だからこそ、ちゃんと説明してくれ。じゃないと、お前を絶対に許さない!」そう言って、またしても瑛介の胸ぐらを掴みに行こうとした。だがその直前で、瑛介は冷ややかに一言発した。「触るな」その声は冷え切っており、背筋に氷を当てられたような感覚をもたらした。一瞬で聡の動きが止まり、足も自然と止まった。「......いいよ。触らないよ。だけど、今日ははっきりさせてもらうぞ」「何を?」瑛介は冷ややかに睨みつけながら言った。「いつから僕のプライベートをお前に報告しなきゃならなくなった?」その言葉を聞いた聡は、目を大きく見開き、驚愕した。「瑛介......これはお前のプライベートの問題じゃないだろ!?奈々に関わることなんだよ!奈々はずっとお前のことを愛してた。それをお前が知らなかったはずがない。それなのに......弥生なんて女のせいで奈々を裏切って......それでも男なのかよ!」聡の怒声は、あまりにも大きくて、近隣の住人までが顔を出しかねない勢いだった。弥生はもともと関わる気がなかったので、彼らが何を言おうと放っておくつもりだった。騒ぎが収まったら
遠くからでも、弥生の目には、別荘の門前に佇む幾人かの見覚えある姿が映った。聡、綾人、そして奈々......あの細いシルエットを目にした瞬間、弥生の脳裏には、あの日オークション会場で彼女を見かけた光景が鮮やかに蘇った。あの後はずっと、瑛介のそばに現れたことはなかった。なのに、今ついに彼女が現れたのだ。子供たちはまだ瑛介の家の中にいる。そんな状況で、奈々が訪れるとは......そう思った瞬間、弥生の顔色が変わった。考えるよりも、足を速めてその場へと向かった。ところが、彼女がちょうど近づいたとき、目に飛び込んできたのは、聡が無理やり家の中に入ろうとして、瑛介に襟首をつかまれ、そのまま外に投げ出された光景だった。聡は、そのまま弥生の足元近くに倒れ込んだ。そしてようやく我に返った奈々と綾人は、聡を助け起こそうとしたが、ちょうどそのとき、街灯の下、伸びた影の先に立つ一人の女性に気づいた。その場にいた全員の視線が、弥生の姿に集まっていった。弥生に気づいた奈々は、一瞬言葉を失ったように目を見開いた。五年間、瑛介はずっと自分を受け入れようとしなかった。それでも、彼の周りには他に誰もいなかったから、自分は特別な存在であり続けられた。長い時間が経ち、奈々の心にはこんな思いも芽生えていた。「もしかしたら、弥生はもう約束を破って帰国することはないのかもしれない」もし、あのとき彼女が帰ってきたら、自分は太刀打ちできなかったかもしれない。でも、何年経っても彼女のことは何もわからないままだった。きっと、もう戻らないだろう。きっと、五年の間に別の男と結婚したに違いない。そう、ずっと自分に言い聞かせてきたのに......今、この場に現れた彼女を目にした瞬間、奈々は悟ってしまった。自分の未来が、根本から覆されるかもしれない。五年が経っても、弥生はより洗練された魅力をまとっていた。母となった穏やかな気配が加わり、彼女の佇まいには大人の女性ならではの魅力が溢れていた。こんな弥生に、男が心を動かされないはずがない。そして、何よりも、彼女がここにきたのは......あの女の子が本当に彼女の子供だということか?もしそうだとしたら......どうして彼女の子供が、瑛介の家にいるの?無数の疑
それに、さっきおじさんって呼んでたよね?瑛介には彼女の知らない身分があったのだろうか?そう思った瞬間、奈々の表情はすでに限界に達しそうだった。彼女は冷たい表情の瑛介の顔を見つめ、ようやくの思いで声を絞り出した。「瑛介......その子は誰なの?」綾人も眉を少し上げながら、静かに瑛介を見つめて、答えを待っていた。そのとき、鈍感な聡が口を開いた。奈々の言葉を聞いた彼は、驚愕した様子で階段口に立っている少女を指差した。「瑛介、この子......お前にすごく似てるけど、まさかお前の子供じゃないよな?」その一言で、奈々の顔色はさらに悪くなった。垂れ下がっていた手はぎゅっと握りしめられ、細い爪が掌に食い込むほどだった。「まさかそんな......」彼女は引きつった笑顔を浮かべながら、無理やり言葉を続けた。「昔も似たような子が何人も瑛介の前に連れてこられたことあったじゃない。でもあれって、結局みんな調べたら整形だったりして、瑛介に近づこうとした狂った親たちの仕業だったでしょ?この子も、もしかしたら......また同じような......」そう口では言いながらも、奈々の内心はすでに不安に支配されていた。目の前の少女は、どう見ても自然な顔立ちで、無邪気で、そして生き生きとしていた。もし本当に整形だったら、ここまで自然な可愛さは出せない。しかも彼女にはもう一つ、恐ろしい予感があった。この子の眉目、瑛介に似ているだけでなく、あの女にも似ている......奈々は、その女を思い出すことすら嫌だった。もしあの女じゃなかったら、自分はもうとっくに瑛介と婚約していたはずなのに。階段口に立っていたひなのは、玄関に知らない大人がたくさんいるのを見て、少し首を傾げた。瑛介以外に、男の人が二人と女の人が一人がいる。全員が自分の顔をじっと見つめていた。けれど、彼女は全く動じなかった。もともと可愛らしい容姿だったこともあり、小さい頃から人に注目されることが多かった彼女は、見られることに慣れていた。むしろ堂々と立ち、じっと見られても平然としていた。その様子を見ながら、瑛介は眉を深くひそめた。弥生や子供たちがまだ完全に自分を受け入れていないこの段階で、こんな騒ぎは起こしたくなかった。これ以上多くの人間に
言い終えると、聡は奈々のために、さらに一言加えた。「お前は知らないかもしれないけど、奈々が最近どれだけお前のことを想ってるか......分かってるのか? いくら仕事が忙しいとはいえ、奈々からの電話くらい出てやってもいいんじゃないか?」その言葉を聞いた綾人は、静かに聡を一瞥した。彼は数少ない、瑛介に対してはっきりと物を言える人間だった。幼い頃から三人の関係が深かったことと、それぞれの家同士も付き合いがあったからだ。だからこそ、瑛介はこの幼馴染に対して、一般の人々よりもずっと寛容でいられた。常識のある者ならあまり口を挟まないが、聡のように空気が読めず、つい喋りすぎてしまうタイプは、昔からいた。子どもの頃から、思ったことをそのまま口に出す性格で、瑛介が何度注意しても直らなかった。そして今、瑛介は彼の発言をまるで聞こえていなかったかのように、淡々と口を開いた。「わざわざ来なくていい。用がないなら、早く帰れ」そう言いながら、瑛介は扉を閉めようとした。「瑛介......」「おいおいっ」聡はすぐに手を伸ばし、ドアに押さえて瑛介の動きを止めた。「せっかく来たのに家にも入れてくれないのは、ちょっとひどくないか?俺たち南市から飛行機で来たんだぞ。着いたその足でお前に会いに来たんだ」瑛介のこめかみに青筋が浮かんだ。「今は時間がない。別の日にしてくれ」子供たちがまだ中にいて、しかも弥生ももうすぐやってくる。この三人を家に入れたら、事態は複雑になるばかりだ。だから瑛介は一切の遠慮なく、彼らに退去を命じた。聡はあからさまに不満そうだった。「瑛介、どうしちゃったんだよ?俺たちのこと、もう友達だと思ってないのか?ちょっと家に入って話すくらい、いいじゃん!」瑛介の強い態度に、奈々の目にはうっすらと涙が滲み、下唇を噛みながら今にも泣き出しそうだった。「瑛介......ただあなたに会いに来ただけなのに......」そんな中、瑛介の鋭い視線が綾人に向けられた。綾人は鼻を掻きながら、仕方なく仲裁に入ろうとした。「じゃあ、こうしよう。瑛介、たぶん仕事で忙しいんだと思うし......今日は帰って」その言葉が言い終わらないうちに、家の中から柔らかくて幼い声が響いた。「おじさん、お客さん来たの?」瑛介
励まされたひなのは、「やったー!」と元気いっぱいに叫びながら、再び飛行機のモデルを開封しに駆け出していった。彼女がその場を離れたあと、瑛介の視線は、ずっと傍らに立ち、ほとんど口を開かず、どこか感情を抑え込んだ様子の陽平に向けられた。「陽平くんはどう?」「な、なに?」名前を呼ばれた陽平は、急に緊張したような表情になった。「ひなのちゃんの夢はパイロットになることだって言ってたけど、陽平くんには夢があるのか?」これはおそらく、瑛介が初めて子ども相手にこんなふうに辛抱強く会話し、夢について尋ねた瞬間だった。以前の彼なら、子どもの話なんて一秒も聞こうとしなかっただろう。でも、今は違った。失われた五年間を少しでも取り戻したくて、二人の子どもたちのことをもっと知りたくて、彼は心からそう思っていた。陽平は視線を逸らし、瑛介の方を向かずに、ぽつりとつぶやいた。「まだ、ない......」その言葉を聞いて、瑛介の視線はふと彼の小さな手に落ちた。指先が服の裾をぎゅっと掴んでいて、その仕草に深い意味を感じ取った。「本当?それとも、おじさんには言う必要ないって思ってるのか?陽平くん、また警戒してるみたいだな」「いいえ」陽平は否定したが、うつむいたままの頭と仕草が、心を閉ざしていることを物語っていた。観察力の鋭い彼のことだから、弥生がどれだけ明るくふるまっても、何かを感じ取っているのだろう。瑛介は陽平が自分を拒絶していると悟った。どうすれば、父親として子どもの心に近づけるのだろうか?どうすれば、陽平の心の扉を開いてもらえるのだろうか?そう考えていたその時、下の階からチャイムの音が聞こえてきた。瑛介はふと動きを止め、それから陽平に向かって言った。「たぶん、ママが来たよ。ちょっと玄関行ってくるね」立ち上がろうとしたその瞬間、瑛介はふと何かを思い出したように続けた。「そうだ、これからは『おじさん』じゃなくていいよ。『瑛介おじさん』って呼んでくれる?」そう言ってから、彼は階段を降りていった。チャイムは鳴り止まず、何度も何度も響いていた。瑛介は少し眉をひそめた。昨日、弥生は普通に入ってきた。つまり暗証番号を知っているはずだ。それなのに今日はなぜ、何度もチャイムを押しているのか?もしか
瑛介は子供たちを家に連れて帰ったあと、わざわざシェフを呼んで美味しい料理を作ってもらい、さらにおもちゃも用意させていた。まだ二人の好みがはっきり分からなかったのと、自分でおもちゃを買ったことが一度もなかったこともあって、とにかく手当たり次第にいろいろな種類を揃えたのだった。二人の子供たちはそんな光景を見たことがなく、部屋に入った瞬間、完全に呆気に取られていた。そして二人は同時に瑛介の方へ顔を向けた。ひなのが小さな声で尋ねた。「おじさん、これ全部、ひなのとお兄ちゃんのためのなの?」「うん」瑛介はうなずいた。「君たちのパパになりたいなら、それなりに頑張らなきゃな。これはほんの始まりだよ。さ、気に入ったものがあるか見ておいで」そう言いながら、大きな手で二人の背中を優しく押し、部屋の中へと送り出した。部屋に入った二人は顔を見合わせ、ひなのが小声で陽平に尋ねた。「お兄ちゃん、これ見てもいいのかな?」陽平は、ひなのがもう気持ちを抑えきれていないことを分かっていた。いや、実は自分もこのおもちゃの山を見て心が躍っていた。しばらく考えてから、彼はこう言った。「見るだけにしよう。なるべく触らないように」「触らないの?」ひなのは少し混乱した表情を見せた。「でも、おじさんが買ってくれたんでしょ?」「確かにそうだけど、おじさんはまだ僕たちのパパじゃないし......」「でも......」目の前にある素敵なおもちゃの数々を、ただ眺めるだけなんて、あまりにもつらすぎる。ひなのはぷくっと口を尖らせ、ついに陽平の言葉を無視して、おもちゃの一つに手を伸ばしてしまった。陽平が止めようとしたときにはもう遅く、ひなのの手には飛行機の模型が握られていた。「お兄ちゃん、見て!」陽平は小さく鼻をしかめて何か言おうとしたが、そこへ瑛介が近づいてきたため、言葉を呑み込んだ。「それ、気に入ったの?」瑛介はひなのの前にしゃがみ、彼女の手にある飛行機模型を見つめた。まさかの選択だった。女の子用のおもちゃとして、ぬいぐるみや人形もたくさん用意させたのに、彼の娘が最初に手に取ったのは、まさかの飛行機模型だった。案の定、瑛介の質問に対して、ひなのは力強くうなずいた。「うん!ひなのの夢は、パイロットになることなの!」
とにかく、もし彼が子供を奪おうとするなら、弥生は絶対にそれを許さないつもりだった。退勤間際、弥生のスマホに一通のメッセージが届いた。送信者は、ラインに登録されている「寂しい夜」だった。「今日は会社に特に大事な用事もなかったから、早退して学校に行ってきたよ。子供たちはもう家に連れて帰ってる。仕事終わったら、直接うちに来ていいよ」このメッセージを見た瞬間、弥生は思わず立ち上がった。その表情には、明らかな驚きと怒りが浮かんでいた。だがすぐに我に返り、すぐさま返信した。「そんなこと、もうしないで」「なんで?」「君が私の子供を自宅に連れて行くことに同意した覚えはない」相手からの返信はしばらくなかったが、しばらくしてようやくメッセージが届いた。「弥生、ひなのちゃんと陽平くんは、僕の子供でもある」「そう言われなくても分かってる。でも、私が育てたのよ。誰の子かなんて、私が一番よく分かってる」「じゃあ、一度親子鑑定でもしてみるか?」「とにかく、お願いだから子供たちを勝手に連れ出さないで」このメッセージを送ってから、相手は長い間返信を寄こさなかった。弥生は眉をわずかにひそめた。もしかして、彼女の言葉に納得して子供たちを連れて行くのをやめたのだろうか?だが、どう考えてもおかしい。瑛介は、そんなに簡単に引き下がる男ではない。不安が募る中、まだ退勤時間まで15分残っていたが、弥生はもう我慢できず、そのまま荷物をまとめて早退することに決めた。荷物をまとめながら、弥生は心の中で瑛介を罵っていた。この男のせいで、最近はずっと早退ばかりしている。まだ荷物をまとめ終わらないうちに、スマホが再び震えた。ついに、瑛介から返信が届いた。「子供は車に乗ってる。今、家に帰る途中」このクソ野郎!弥生は怒りに震えながら、電話をかけて文句を言おうとしたその瞬間、相手からまた一通のメッセージが届いた。「電話するなら、感情を抑えて。子供たちが一緒にいるから」このメッセージを見た弥生は言葉を失った。腹立たしい!でも子供たちのことを考えると、彼女は何もできない自分にさらに苛立った。彼のこの一言のせいで、「電話してやる!」という気持ちは完全にしぼんだ。電話しても意味がない。どうせ彼は電話一本で子供たち
しばらくして、弥生はようやく声を取り戻した。「......行かなかったの?」博紀は真剣な面持ちでうなずいた。「うん、行きませんでした」その言葉を聞いた弥生は、視線を落とし、黙り込んだ。彼は奈々に恩がある。もし本当に婚約式に行かなかったのだとしたら、それはまるで自分から火の中に飛び込むようなものではないか?でも、行かなかったからといって、何かが変わるわけでもない。「当時は、多くのメディアが現場に詰めかけていました。盛大な婚約式になるだろうと、皆がそう思っていたからです。でも、当の主役のうち一人が、とうとう姿を現さなかったんですよ。その日、江口さんは相当みっともない状態だったと聞いています。婚約式の主役が彼女一人だけになってしまい、面子を潰されたのは彼女個人だけでなく、江口家全体にも及んだそうです。ところが、その現場の写真はほとんどメディアに出回ることはありませんでした。撮影されたものは、すべて削除されたらしくて......裏で何らかのプレッシャーがかかったのかもしれませんね」そこまで聞いて、弥生は少し疑問が浮かんだ。「もしかして......そもそも婚約式なんて最初からなかったんじゃないの?」彼女の中では、瑛介が本当に行かなかったなんて、どうしても信じがたかった。あのとき彼が自分と偽装結婚して、子供まで要らないと言ったのは、心の中に奈々がいたからではなかったのか?それなのに、奈々のほうから無理やり婚約に持ち込もうとして、結局うまくいかなかったって......「最初は、みんなもそうやって疑ってたんですよ。でも、あの日実際に会場にいたメディア関係者の話によると、現場は確かにしっかりと装飾されていて、かなり豪華な式場だったそうです。ただ、どこのメディアも写真を出せなかった。すべて封印されて、もし誰かが漏らしたらクビになるっていう噂まで立っていたんです。でもその後、思いがけないことが起きましてね......たまたま近くを通りかかった一般人が、事情を知らずに会場の様子を何枚か写真に撮ってネットに投稿しちゃったんです。それが一時期、すごい勢いで拡散されたんですけど......すぐに削除されてしまいました」「写真に何が写ってたの?」博紀は噂話を楽しむように笑った。「僕も、その写真を見たんです。ちょうど江口さんが花束を抱え